もう、逃げることなどできはしない。 妖しく光るその瞳に、 強引に抱きしめられたその腕に、 甘く囚われ、篭の中。 ここは掟に背きし楽園。 吸血鬼達の住まう場所…。 『 夢幻の城 1 ―限り有る世界へ― 』 「ヤダ、火が弱くなってる」 夕食用の豆のスープを煮込んでいる最中に、火力が弱まっていることに気がついた。 身を屈めて覗き込めば、やはり中心の火は弱弱しくともり、端の方はくすぶっているだけの状態になっている。 「えっと、薪…薪と…」 釜戸に暖炉、それにお風呂。 薪は生活の必需品。 両親が遺したこの家はやたらと大きく、部屋を暖めるにも風呂を炊くにもやたらと薪を消耗する。 だからいつもストックを家の中に置いているのだけれど。 「…げ…」 その日に限って全部切らしてしまっていた。 「もォ〜仕方ないなァ」 は野菜を切るのを中断し、ドアに向かう。 外は冷えるため袖を縛っていたたすきを外し、簡素な自分のドレスのポケットに押し込み、火のついた燭台を手にする。 …ギ…。 少し厚めの木戸を開ければ、地面にはに細長く光がもれる。 庭の端にある薪置き場へは足を進めた。 外はすっかり日が落ち、闇夜に包まれている。 ただ、頭上にぽっかりと月だけが浮かんで、芝生の庭を煌々と照らしている。 そのせいだろうか、月光の届かない茂みや立ち木のあたりは余計に闇が深く、まるで僅かな光も飲み込んでしまうようだった。 庭の端に無造作に積まれた薪の山からカコン、カランと薪を手にして何本か手早く抱え込む。 早くしないと作りかけのスープが冷めてしまうから。 その時ふいに。 手に持っていた蝋燭の火がかすかに音を立てて揺らめき、地面に薄ぼんやりと落ちたの影を動かした。 「・・・・?」 いつも見慣れた少し広い庭。 の、はずなのに。 蝋燭と月以外に光のないそこはどうも薄気味が悪くて、木立ちや茂みにも視線をやる気がしない。 しないけれど、でも周りを確認しないのもやはり気味が悪くて。 はゴクリと生唾を飲み、恐る恐る辺りをクルリと見回す。 おかしなものは目に映らず、辺りは静まり返っている。 「・・・・・・・」 けれど。 否、だからこそ。 異変に気がついてしまった。 ツゥ、と背骨に冷水が伝うような寒気が走る。 音が、ない。 虫の鳴き声は? いつも煩い、犬達の遠吠えは? それどころか、髪1本そよがすような風すらも、ない。 それは耳が痛い程の静寂で。 ジリ、と蝋燭の芯が燃える。 風もないのに揺らめいたその炎。 「・・・・・・・ッ・・・!」 怖い。 は直感的に、『何か』から逃げねばならないという恐怖を感じた。 いつの間にか薪を抱える手や額からは冷や汗が滲み、まるで心臓が耳の横に移動してきたかのようにドクドク音を立てる。 何本か薪が腕からこぼれ落ちるのも構わず、その場に背を向けようとした時だった。 ・・・ザァッ・・・・ 突然吹き抜けた生暖かい風と、 暗い暗い茂みの影に覗いた赤い2つの光。 「あ・・・あ・・・」 嗚呼、何故見てしまったのだろう。 そのまま薪など放り家に逃げ込めばよかったのに。 ゆっくりと、しかし確かにこちらへ向かって来る草木を踏みしめる音。 恐怖で固まり動かぬ足を必死で叱咤し後ずさる。 黒い塊が、その姿形を徐々に現し始めて。 「ヤ、助けっ・・・ン゛ッ・・・!!」 それが、幼い頃から聞かされていた、夜に現れる人型の魔物。 人間を喰らう吸血鬼だと分かった時にはもう、 手遅れだった。 「んんッ!ん゛ー・・・!」 悲鳴を上げようとした口を手で覆われる。 逃げようにも背にまわされた腕で支えられ叶わない。 その力の強さははまさに人外のもので。 あまりの恐ろしさには瞳からボロボロと涙を流し、体を震わせる。 嫌だ。 お願い。 誰か助けて・・・! そんなの心中をあざ笑うかのように、吸血鬼はクク、と喉の奥を鳴らした。 「・・・今夜は運がいいな。最近はどいつも知恵がついて夜に外をうろつこうとしねェ・・・」 月を背にしたその魔物の顔は見えない。 ただ愉快そうに上げた口の端から、確かに人間にはあるはずのない牙がわずかに見えた。 「おい、女」 魔物の呼びかけに彼女はビクリと体を強張らせる。 動いた拍子に涙が彼女の胸元にパタパタッと零れ落ちた。 「お前は、運が悪かったと諦めるんだな」 耳元に寄せ、低く囁く声は絶対的な強者が弱者にかける哀れみのように響く。 「俺も腹が減っちまってなァ。ここんトコ何も喰ってねーんだ。悪ィーが全部喰わせてもらうぜ・・・」 口を塞いでいた手をずらし頭を横に傾けさせて、彼女の首筋を月光の元にさらす。 「ヒ・・・!」 声を解放されても、彼女は恐怖で喉を引きつらせることしかできない。 震える手はせめてもの意思表示なのか、その吸血鬼の服の胸元を握る仕草を見せる。 「クックック・・・まァそう怯えるなよ」 その様子に気付いたのか、その吸血鬼はむき出しの首にかかる髪を梳き、除けながら言葉を続ける。 指先の優しい動きが余計に恐ろしさをかきたてる。 「痛みはねェはずだぜ・・・?俺ァ苦しめて殺すのはシュミじゃねーんでな・・・」 ピチャ、と水音がしたと思えば、首筋にヌルリと生暖かい感触がつたう。 「・・・・ッ・・・・!」 これから噛み付かれるであろうそこを舌でゆっくり舐め上げられ、彼女はビクリと体に力を入れる。 久しぶりにエモノを得たのが余程嬉しいのか、それとも女の様子を愉しんでいるのか、魔物はまたククッと喉を鳴らした。 「心地は良いハズだ・・・お前も苦痛の中で血を吸われるよりいいだろう?」 言うと吸血鬼は口を大きく開き、鋭い2本の牙をカプリと彼女の白い首筋にあてがう。 「ヒッ・・・あ・・・イ、ヤぁ・・・!」 そのチクリとする感触が確かに感じられ、これから身に起こることが現実味を帯びる。 なぜなのだろう。 今まさに命を喰われようとしているというのに、体は言うことをきかず、喉は萎縮し叫び声を上げることもできない。 にできることは、か細い声を絞り出すことと、涙で濡れた瞳を大きく開くことだけった。 そんな彼女の様子に構わず、その魔物は口にグッと力を込める。 「 鋭い牙の先が皮膚を開き、己の首に埋まる感触に目を固く閉じれば、涙が頬を伝いポタリと音を立てて服に染み込んでいく。 「・・・・っふ、あ、あ・・・!」 根元の方ほど太い牙は、彼女の首の柔肉にゆっくりと、しかしきつく食い込む。 吸血鬼はニヤリと怪しく笑み、チウ…チュ…と音を立てながら彼女の血液を口内へ取り込んでいく。 「あ、ゥ・・・!」 首の中を吸い上げられる感覚がハッキリ感じて取れる。 けれど、その魔物の言うことは嘘ではなかったようだ。 痛みはなく、それどころか牙の食い込む部分がジワジワと熱を帯び、首筋から脳髄へ痺れるような快感が這い上がってくる。 怖い。 怖いよ・・・ ポタポタと零れ落ちる涙が止まらない。 彼女は止めてくれと言うかのように体を捩り、浅く早い呼吸を繰り返す。 「ふ、アッ・・・!」 より深く、強く吸い上げられは思わず声を上げた。 それが耳に入ったのだろう、魔物はより彼女を支える腕に力を込め、深く彼女の首筋に顔を埋める。 その様子は、何も知らぬ者がハタから見れば恋人同士の逢瀬、甘い愛撫に見えただろう。 (あつ、い・・・) しかしこの場で行われているものは、甘さを増すほどに残酷さも増す行為で。 血を吸い上げる度に体を麻薬のような快楽が走り、彼女の思考をどんどんと奪い去る。 ゾクゾクと痺れるような熱の中で、彼女の瞳は時が経つごとに光を失っていく。 (・・・あぁ、私はこのまま死んでしまうんだ・・・) 視界が揺らめき、その魔物の腕の中から見上げていた月の形も輪郭を失い始める。 重度の熱病にかかったかのように混濁する意識の中、彼女は自らの心音がトクトクと弱まっていくのを感じていた。 その時。 ふいに吹いた微風が彼女のドレスを揺らした。 浅いポケットに押し込んでいたたすきが、その風で外へこぼれ落ち彼女の足をスルリと撫でた。 「・・・・っ」 僅かに残っていた意識がその感覚を捉え、一瞬。 そう、一瞬。彼女の体をピクリと振るわせた。 そして、その一瞬のことに反応したのは彼女だけでは、無かった。 「・・・・・・・」 吸血鬼の動きが止まったのだ。 あれほど脳を支配していた快楽も徐々に引いて、ほんの少しだが彼女の意識が戻る。 「・・・・お前・・・」 牙を首から引き抜けば、肉と密着していたためにチュプリと小さく、しかし生々しい音が響いた。 腕の中の娘を見やればグッタリとしていて、さらに視線を落とすと彼女の足元には白いたすきが落ちている。 「・・・・・」 その魔物はしばらく考えこみ黙っていたが、すぐに何かを理解したのか愉快そうに口元を歪めた。 「・・・・ククッ・・・成る程な・・・」 スッと先程まで彼女の頭を支えていた手を伸ばし、今しがた自分が噛み付いていた部分に触れる。 指の腹で何度かさすると、不思議と傷は消えてしまった。 「もしそういう事なら・・・・一度に喰っちまうのは勿体ねェなァ・・・」 その言葉を彼女は霞がかる意識の片隅で聞いていた。 「よォ、女・・・」 魔物はその娘の体をマントの中で両腕で抱きなおして。 「このまま、一緒に来てもらうぜ・・・?」 耳元でそう囁く。 それを最後に、彼女の意識はスゥ・・・と深い眠りの中へ落ちていった。 ********************************** 吸血鬼の土方さんを想像していたら思わず・・・やっちゃいました。 ちょっとキャラが変わっちゃってるんですが、そこはパラレルの醍醐味ってことで許してやってくださいませ(苦笑) しばらく話は続きます。 |